グルジェフ

ゲオルギイ・グルジェフは、20 世紀に最も大きな影響を残した精神的な師の一人であった。グルジェフは帝政ロシア領であったアルメニアのギュムリ(現アレクサンドロポル)で、ギリシア系の父とアルメニア系の母のもとに生まれた。その自伝的著作『注目すべき人々との出会い』にはいくつかの風変わりで魅力的な記録が見られるが、彼の生涯の早期については不明な点が多い。この著作でグルジェフは、若き日に自らが西方はギリシアからエジプト、東方はアフガニスタンからチベットにいたる広大な地域にわたって古代の秘教的伝統を探求したと語っている。

早期に試みたこれらの探索の経験から、グルジェフは後に次のような洞察を残している。「この有史以前のエジプトはキリスト誕生の数千年前からすでにキリスト教国であった、すなわちその宗教は真のキリスト教を構成しているものと同じ原理と概念で成り立っていた、と言えば、多くの人々は奇妙に思うかもしれない」。また、グルジェフは次のようにも語っている。「『汝自身を知れ』という言葉は、普通ソクラテスのものとされているが、実際にはそれよりも遥かに古代の多くの体系とスクールの基礎に存している」。

グルジェフは、アフガニスタン北部のヒンドゥークシュ山脈にあるサルムング教団での修行の直後から、その活動の焦点を真理の「探索」から「伝授」へと移していった。1912年にグルジェフはタシュケントを離れてモスクワに移り、名前を持たないある教えによって少数の生徒たちを集め始めた。この教えは宗教でも哲学でもなく、実際にそのものを生きるべき実践的な教えであった。この教えでは、直接の経験で確証するまでは何一つ信じてはならず、また世間での普通の生活を捨てないことが原則とされていた。この教えは生の中で実践するものであり、最終的には自らの信念、前提、態度、また地上の人間の生についての全体的な俯瞰など、一切について疑問を呈しなければならなかった。1915年にはP. D.ウスペンスキーが生徒として受け入れられ、1916年にグルジェフの生徒は約30人となった。

それ以降、グルジェフは西ヨーロッパを生徒と共に旅してその「ワーク」について講義と実演を行った。1922年には、パリ南方のフォンテーヌブロー・アヴォンに「人間の調和的発展のための協会」が設立された。1924年からグルジェフは北米を幾度か訪問し、さらに生徒が集まった。その同じ年に、グルジェフはフランスで自動車事故に遭い、危うく命を落とした。その負傷から回復した後、グルジェフは正式に協会を解散し、著作活動に努力を傾注し始めた。1935年までに、『ベルゼバブの孫への話』、『注目すべき人々との出会い』、および予定されていた(そして未完に終わった)第三集の最初の部分が執筆された。第三集のこの部分はグルジェフの没後に『生は<私が存在し>て初めて真実となる』という書名で出版された。グルジェフは1949年に世を去るまでパリで教えつづけた。

グルジェフのメッセージが与えた影響は巨大なものであった。グルジェフと接触した多くの人々は彼が尋常な人間ではないと感じ、その多くの人々がグルジェフとの体験を著作に残している。しかし実は、グルジェフは新しいメッセージをもたらしたわけではなかった。彼は、時代を超越した同一のメッセージを新鮮な仕方で提示していたのである。

グルジェフ(『注目すべき人々との出会い』第2章、英雄ギルガメッシュの伝説に触れて): 古代の智慧は数千年にわたって世代から世代へと伝えられてきた。しかもその智慧は現在もほぼ変わりなく残されている。…このことを理解したとき、私はそうした太古の伝説に秘められた巨大な価値を認める機会を逸してきたことを後悔した。しかし今では、その真の価値に疑いはない。

没後60年以上が経過した今も、グルジェフのメッセージは反響を呼びつつある。















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