低次の自己:人間の動物的な側面

聖人に忍び寄る魔獣(低次の自己)

「低次の自己」は動物としての本性をそなえている。それは利己的であり、主な関心は快適さ、安全、食物、金銭、セックスにすぎない。「低次の自己」は基本的に自らの生存の維持に責任を負っており、たとえば身体が病気になると回復の過程で活発になる。しかし、生存の維持というその役割に一定の価値はあるものの、「低次の自己」は、そのレベルを超えた人の意識的な覚醒には関心がなく、むしろそれに強く抵抗することになる。なぜなら、人が覚醒するとき、「低次の自己」は「高次の自己」を眠らせておく力を失い、自らの生命の危険を感じるからである。

さまざまな秘教的(エソテリック)な伝統で、牛は「低次の自己」の本能的、動物的な特性を象徴している。牛は目覚めに抵抗し、時には暴れようとする。私たちが抑制しないかぎり、この牛は私たちを支配してしまうのである。


グルジェフ:外的な観点から見れば、人間は動物である。
しかし、人間は他のあらゆる動物とは異なる位階にある動物である。
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『エジプトのピラミッドに記されたテキスト』:失せよ、この吠える牛よ。おまえの頭はホルスの手にある。おまえの尾はイシスの手にある。

『フィロカリア』、「偉大なる禁欲者テオドロス 」:魂が自然に反する状態にあり、感覚的な快楽の雑草や棘に狂って勝手気ままにするかぎり、魂は奇怪な獣の棲み家のままとなる。

『易経』:天の精神が人を治めるとき、人の獣性はその正しい場所におさまる。

アル・ジラーニ(12世紀、スーフィーのマスター):信ずる者が低次の自己を克服し、鞍のようにそれに座する境地に入れば、その心の偉業は顔に輝き出る。

劉一明(道教の易経)第三十八の卦「睽」の解説):「道の心」を復元したい場合は、最初に人間の心を理解する必要がある。しかし、人間の心を理解するために、それを見ることが重要である。人間の心を豚のよ bうに、悪魔のように見ろということは、真の人間の心理を見て、それはどんなに有害であるかを見ることである。

ウィリアム・シェイクスピア、オセロ: 自分自身の不滅の部分が失ってしまって、残っているのは獣的である。

カバラ「ゾーハル(光の書)」:人間は二つの本性でつくられた。ひとつは動物的あるいは低次の自己、もうひとつは霊的あるいは高次の自己である。これというのも、後者の発達のために前者が必要だからである。

















牛(低次の自己を象徴)に従っている
人(紀元前1280年、セティ王の墓、
王家の谷、エジプト)








雄牛を抑える天使を描いたペルシャの絵画










雄牛を踏みつける天王(10世紀、中国)










キリストは、ロバに乗って、エルサレムに入る ( シャルトル大聖堂、フランス)