低次の自己:一万の<私>

「低次の自己」は、人間の中に宿っている態度、夢、機械的な習慣、動物的な側面の集合体である。人間には、常に不変の統一された「私」がない。むしろ人間が体験する無数の思考や感情、感覚は、統一のない複数の<私>であり、さまざまな秘教的(エソテリック)な伝統はこれを「一万」という数字で表現している。一万の<私>は、その都度無秩序に現れて自己を主張し、それぞれの<私>は自分こそが「本当の<私>」だと誤解している。さらに、複数の<私>は、「現在に存在しようとするシンプルな努力」を常に妨げている。キリストが聖書で「汝の敵は、自らの家の者となるであろう」と語っているのは、自らの内にある一万の<私>を指しているのである。


グルジェフ:人間は複数である。人間の名は「レギオン」である。

『新訳聖書』 マルコによる福音書、5章9節:それで、(イエスが)「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。

ダルカウィ(18、19世紀、スーフィーのマスター):一万もの世界があり、それらすべての世界がひとりの人間の内面に存在しているが、人間がそれを意識することはない。

達磨大師 (中国禅の初祖):それらは近くにあるが、あなたにはそれらが見えない。これこそが「一万の物事」の本質である。

ハーフェズ (14世紀のイスラム神秘詩人):あたかも長らく内面を支配し暮らしていた一万の愚者たちが一斉に荷物をまとめて町から逃げ出したり、あるいは死に赴くがごとくに、何かを信じて行動を始めることは、道を歩んで大望を抱く者にとっては常に危険である。

『旧訳聖書』 詩篇、3章6節:私をとり囲んでいる幾万もの民をも私は恐れない。











竜を退治するルスタン
(ペルシャの細密画、16世紀)




自分の頭の中で起こる戦いを見つめる
マジノーン(ペルシャの細密画)




一万の<私>を無視してマーラ(魔羅)の
軍勢を破り、悟りに至った菩提樹下の仏陀
(インド、3世紀、フリーア美術館、
ワシントンD.C.)