「自己想起」の秘教的伝統
もしそれが簡単で、すぐに成果が出るものだとしたら、その状態がもつ重要性はありえなかっただろう。
古代エジプト神話の神、オシリスの伝説によれば、嫉妬深い弟セトは兄のオシリスを羨ましく思い、またオシリスの妻(妹)イシスを憎んでいた。人々がオシリスを愛して賞賛すればするほど、セトは彼を憎み、ついにはオシリスを騙して殺害した。セトはオシリスの体をばらばらに切断し、エジプト周辺の地にばらまいた。妻イシスと息子ホルスは、ばらばらになったオシリスの身体を集めて復活させるために、エジプト全域にわたって身体の一部を探し回った。
あらゆる秘教的伝統の神話には、「高次の自己」による「神聖なるプレゼンス」の覚醒の道に関連して、同一の内的意味が秘められている。このオシリスの殺害という異常な物語の内的意味は、「自己想起」(Self Re-membering)と呼ばれるホルスとイシスの精神的な努力である。ばらばらになった身体の部分(member)を集めることは、「高次の自己」を想起(Re-member)することの語呂合わせである。ホルスは「執事」と呼ばれる、自己想起をしようとする人間の内的な部分を象徴している。
オシリスの弟セトが象徴しているのは「低次の自己」である。「低次の自己」はできるかぎり「神聖なるプレゼンス」に敵対する。なぜなら、「神聖なるプレゼンス」が生じると「低次の自己」は物事を支配できなくなり、受動的になって、いわば一時的に死ぬ必要があるからである。
オシリスの妻イシスは、人間の内面で「神聖なるプレゼンス」を望んでいる部分であり、自己想起の努力を感情的に支援し、それに力を与える人間の内的な部分を象徴している。また、オシリスの身体は「精神的な努力の身体」または「神聖なるプレゼンス」に達するための道具を象徴している。
大乗仏教の概念である「報身」は、仏陀の「三身(法身、報身、応身)」の一つであり、修行して仏陀になる身体を指している。この「報身」では、菩薩がその誓願を果たして「法身」(真理またはプレゼンスの身体)を達成し、仏陀になる精神的な身体である。
オシリスの身体と同じように、「報身」は神聖なるプレゼンスに達するための「精神的な努力の身体」を象徴している。そして「法身」とは、長時間にわたって持続する「プレゼンス」の状態を表わす。
「精神的な努力の身体」(報身)は、異なるさまざまな部分や要素から成っている。
「身体」が象徴しているのは、「高次の自己」または「法身」を目覚めさせる様々な要素、美徳、段階、努力である。
グルジェフのよく知られた言葉として、次のものがある。
グルジェフは、12世紀のスーフィーであるグジュバーニからこのアイデアを得たと思われる。
自己想起は、日常生活の中に眠っている「高次の自己」を目覚めさせるための努力を指している。Re-membering 「想起」は身体のメンバー「手足」を集めることとして理解できる。
右の画像では、「死神」として象徴される「低次の自己」が、「自己想起」の努力を象徴する体の部分である手と足、頭を切断している。これは、セトがオシリスの身体をばらばらに切断したのと同じことを象徴している。
左の画像でも、「低次の自己」が自己想起の努力を殺そうとしている。しかし執事は「低次の自己」を無視して、現在に焦点を合わせ続けている。その手は自己想起の努力を象徴しており、4本と6本の指を示している。
セトがオシリスを殺害して、その身体をばらばらに切断したのは、「低次の自己」が自己想起の努力を追い払うことを象徴している。イシスとホルスが身体の部分を見つけてオシリスを復活させようとするのは、「高次の自己」の「神聖なるプレゼンス」を回復させるための新たな努力を象徴している。
言いかえれば、「ホルスは、精神的な努力の身体の手足を結びつけた。彼はあなたが眠ることを許さない。あなたに空想が生じないように、ホルスはあなたを一つにまとめた(想起した)」 ホルスが象徴するのは、自分の眠りに気づいて自己想起の努力を再び始める、「執事」と呼ばれる内面の働きである。