「自己想起」の秘教的伝統

グルジェフ:あなたたちの中で、誰も自分が自己想起していないことに気づいていない。あなたたちは自分を感じてない。あなたたちは自己を意識していない。
ウスペンスキー:自己を想起することは、自分に気づいて「私が存在している」 と意識することと同じである。時にそれは自然に起こる。それはとても奇妙な感覚である。それは何らかの機能ではなく、考えることでもなく、感じることでもない。それは異なる意識状態である。
ロドニー・コリン:一度に数秒間しか、自分を想起し始めることができないと気づき始めると、この状態は取るに足らないように思えるかもしれない。だが、理解しておく必要があるのは、それはまさに私たちの新しい状態の始まり、新しい世界への鍵だからこそ、困難なのだという点である。
もしそれが簡単で、すぐに成果が出るものだとしたら、その状態がもつ重要性はありえなかっただろう。

ロバート・バートン:20世紀になるまで、「自己想起」はその名前で世に出たことはなかった。自己が再びつなぎ合わされ、再び集められ、私たちは統一された状態に入るのである。

古代エジプト神話の神、オシリスの伝説によれば、嫉妬深い弟セトは兄のオシリスを羨ましく思い、またオシリスの妻(妹)イシスを憎んでいた。人々がオシリスを愛して賞賛すればするほど、セトは彼を憎み、ついにはオシリスを騙して殺害した。セトはオシリスの体をばらばらに切断し、エジプト周辺の地にばらまいた。妻イシスと息子ホルスは、ばらばらになったオシリスの身体を集めて復活させるために、エジプト全域にわたって身体の一部を探し回った。

あらゆる秘教的伝統の神話には、「高次の自己」による「神聖なるプレゼンス」の覚醒の道に関連して、同一の内的意味が秘められている。このオシリスの殺害という異常な物語の内的意味は、「自己想起」(Self Re-membering)と呼ばれるホルスとイシスの精神的な努力である。ばらばらになった身体の部分(member)を集めることは、「高次の自己」を想起(Re-member)することの語呂合わせである。ホルスは「執事」と呼ばれる、自己想起をしようとする人間の内的な部分を象徴している。

グルジェフ:人間は、召使いが沢山いるのに主人も執事もいない家に喩えられる。まず、執事の到着にそなえて家の準備をすることができる。そして、その執事はまた、主人の到着にそなえて準備をすることができる。
『新約聖書』、ルカによる福音書、12章42節 :主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任される、忠実な賢い執事とは、いったい誰でしょう」

オシリスの弟セトが象徴しているのは「低次の自己」である。「低次の自己」はできるかぎり「神聖なるプレゼンス」に敵対する。なぜなら、「神聖なるプレゼンス」が生じると「低次の自己」は物事を支配できなくなり、受動的になって、いわば一時的に死ぬ必要があるからである。

アンジェラス・シレシアス 17世紀のカトリック神秘家):その愛と喜びが遍く存在している神(高次の自己)は、あなた(低次の自己)が不在でない限り、あなたを訪れることはできない。
ハーフェズ(14世紀のイスラム神秘詩人):身を引け、ハーフェズよ。邪魔をしているのはお前なのだ。 

オシリスの妻イシスは、人間の内面で「神聖なるプレゼンス」を望んでいる部分であり、自己想起の努力を感情的に支援し、それに力を与える人間の内的な部分を象徴している。また、オシリスの身体は「精神的な努力の身体」または「神聖なるプレゼンス」に達するための道具を象徴している。

『フィロカリア』、パイシアス・ベリチコフスキー :スピリチュアルな身体は美徳の総和である。

大乗仏教の概念である「報身」は、仏陀の「三身(法身、報身、応身)」の一つであり、修行して仏陀になる身体を指している。この「報身」では、菩薩がその誓願を果たして「法身」(真理またはプレゼンスの身体)を達成し、仏陀になる精神的な身体である。

慧能(中国禅の第六祖):至高の悟りを達成するまで、途切れなく刻々に心の本質を実現することで、正念の状態を保つのが「報身」である。

オシリスの身体と同じように、「報身」は神聖なるプレゼンスに達するための「精神的な努力の身体」を象徴している。そして「法身」とは、長時間にわたって持続する「プレゼンス」の状態を表わす。

『西遊記』:法身仏には形がない。身体のない体は真の身体である。

「精神的な努力の身体」(報身)は、異なるさまざまな部分や要素から成っている。

空海(真言宗の初祖):密教の教えは、五大とはすべてに浸透する仏の秘密の身体だと説明している。
『ヨーガ・タトヴァ・ウパニシャッド』:五大の身体には、五倍のダーラナ(心の集中)がある。
山崎 泰広『真言宗、日本の密教』:意識は、土、水、火、風、空すべてに浸透する要素として、これら五大と結合される。これらは一緒になり、六大行の普遍的な身体を成す。

「身体」が象徴しているのは、「高次の自己」または「法身」を目覚めさせる様々な要素、美徳、段階、努力である。

龍樹(2世紀、大乗仏教中観派の祖):初めの六つの段階は準備と見なすことができる。 決定的な段階(第七段階)は、菩薩が、執着している すべての感覚から完全な自由を達成する段階である。 これは、菩薩が法身を得る段階である。

グルジェフのよく知られた言葉として、次のものがある。

グルジェフ:いつでも、どこでも、自己を想起しなさい。

グルジェフは、12世紀のスーフィーであるグジュバーニからこのアイデアを得たと思われる。

グジュバーニ(12世紀、スーフィーのマスター): 一息ごとに「現在に存在」しなさい。一呼吸の間さえも、自分の注意力をさまよわせてはならない。いつでも、どこでも、自己を想起しなさい。

自己想起は、日常生活の中に眠っている「高次の自己」を目覚めさせるための努力を指している。Re-membering 「想起」は身体のメンバー「手足」を集めることとして理解できる。

『新約聖書』 ローマ人への手紙、12章4節 :一つのからだには多くの手足(member)があって、すべての手足が同じ働きはしないのと同じように。

『(古代エジプト)死者の書』: 自らの手と足を集めよ。

右の画像では、「死神」として象徴される「低次の自己」が、「自己想起」の努力を象徴する体の部分である手と足、頭を切断している。これは、セトがオシリスの身体をばらばらに切断したのと同じことを象徴している。

『フィロカリア』、ダマスカスのピーター:私たちには手と足が与えられており、神が肯うような仕方でそれらを使うことができる。

『旧約聖書』 詩篇、144章1節:ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を鍛えられる。

左の画像でも、「低次の自己」が自己想起の努力を殺そうとしている。しかし執事は「低次の自己」を無視して、現在に焦点を合わせ続けている。その手は自己想起の努力を象徴しており、4本と6本の指を示している。

『西游記』:四生と六道はことごとく説明される。
空海(真言宗の初祖):六大は四種類の法身を作り出す。

セトがオシリスを殺害して、その身体をばらばらに切断したのは、「低次の自己」が自己想起の努力を追い払うことを象徴している。イシスとホルスが身体の部分を見つけてオシリスを復活させようとするのは、「高次の自己」の「神聖なるプレゼンス」を回復させるための新たな努力を象徴している。

『エジプトの神の伝説』:ホルスはあなたの手足を結びつけた。そして、あなたが病を持つことを許さない。彼はあなたに病がないように、あなたを一つにまとめた。

言いかえれば、「ホルスは、精神的な努力の身体の手足を結びつけた。彼はあなたが眠ることを許さない。あなたに空想が生じないように、ホルスはあなたを一つにまとめた(想起した)」 ホルスが象徴するのは、自分の眠りに気づいて自己想起の努力を再び始める、「執事」と呼ばれる内面の働きである。











「南無阿弥陀仏」の六文字を唱える空也上人(康勝作、13世紀、京都六波羅密寺)










左側にホルス、右側のイシスが控えた
オシリス(第22王朝、ルーブル美術館)










「低次の自己」を抑える持国天
(8世紀、奈良、東大寺)










仏陀の身体に重ねた五大 (地・水・火・風・空)










仏陀の身体を象徴するチベットの卒塔婆










仏陀の身体を象徴するチベットの卒塔婆









「低次の自己」を象徴するタロットカード
13番「死神」









4本と6本の手足を持つ観音菩薩(中国)










夫オシリス(執事)を守るイシス(ハート)
(イシス神殿、エジプト、フィラエ)